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第5回 夢のゴールデンウィーク/映画で旅するイタリア2017 旅のしおり

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その日の朝、僕は野村家のインターホンを押した。いつにも増したハードスケジュールに忙殺されていた野村雅夫は、疲労困憊といったていで僕を出迎えてくれた。彼は僕たち京都ドーナッツクラブの代表ではあるが、FM802のDJとして活躍している。世間様が休暇をとり、なんならランドやらシーやら言う夢の国にくりだすこのGW(ゴールデンウィーク)に、一日たりとも休めていないのだという。「GWっていうのはさ、がんばれ(G)私(W)の略だよね」。彼はうまいこと言って、微笑んだ。

僕たちが今日集まったのは、「映画で旅するイタリア」の字幕翻訳をするためだ。

僕たちは数日前の作業で『アラスカ』の字幕制作を終わらせ、今日から傑作コメディー『やつらって、誰?』に向かうところだった。6月3日の公開初日に向けて、スケジュールは遅れに遅れていたが、何はなくともやらねばならない。大丈夫、今日一日はこの字幕制作に当てている。一本まるまるは高望みにしても、少なくとも半分は終わらせてやる。僕たちは意気込んでパソコンに向かい、映像ファイルと字幕制作ソフトを立ち上げた。

まずはじめに主人公の生い立ちが語られる。小説家を目指していた過去。本を一冊出版したものの鳴かず飛ばずで、食い扶持を得るべく、とある塗料メーカーのコピーライター募集に応募する。その応募作品で書いた
「IL MIO SMALTO INDURISCE SUBITO」
という「下品な」コピーがウケて、彼はその企業に採用される…というのが物語の冒頭。塗料の容器を持って寝そべった水着の女性のポスター、そこにこのコピーが添えられている。

さてこのコピー、どう訳すだろうか?

SMALTOは乾くと光沢を出す塗料の類、INDURIREは固くなる。ざっくり直訳すれば「私の塗料はすぐ固くなる」。速乾性のある塗料のキャッチコピー、原文ではなかなかうまく言っている。これをいかにユーモアをふくらませ、「下品なコピー」という文脈に添わせて日本語にするか。

固くなるのは当然男性のアレなんだけど、塗料という「液体」を男性のアレに見立てるのはよくよく考えると違和感がないだろうか? そもそも塗料なら固くなる、と言うよりは乾く、の方が自然だろう…というところから議論はスタートし、なら女性に置き換えたらどうか? いや、それではエッチが勝ちすぎる。ちょっとエッチで、クスッと笑える。この路線は外せない…。

簡単そうに見えて意外に難しい。翻訳をしているとこういう状況にすぐぶつかる。今回もこの一文に詰まって、無数のアイディアを出し合ううちに、すでに時計の針は大きく一回りしていた。大の大人が朝から頭を突き合わせて、こんな下ネタを1時間以上も大真面目に話し合っている。もうその状況が、映画以上にコメディーだった。このように事態は混迷を極めたが、20や30は下らない下ネタの屍を越えて、ようやくたどり着いたアイディアがこれだった。

「あなたのニスは速攻カチコチ」

もう、これしかないと感じた。

「固くなる」を「カチコチ」としたのが、速乾性とエロスを兼ね備えていて実にイイ。MIOは「私の」なのだが、これを逆に「あなたの」としたことで水着美女が語りかけてくるようなニュアンスも表現、また、「ニス」という響きがなんとなく男性のアレを思わせる。まさに悪魔的発想だった。

ついにたどり着いたね、と僕たちはお互いの手を強く握った。満足感が僕たちを包んでいた。だが、翻訳に夢中になって、僕らの意識から遠ざかっていたものがあった。

時間だ。

ふと壁の時計に目をやって、僕は目がどうかしたのかと思った。この一文の翻訳を始めて、ゆうに3時間が経過していた。おかしい。まだ映画は3分しか進んでいないのに、これはどういうことだ? しかも3分のうちの1分はタイトル映像だ。つまり実質2分しか進んでいない。この映画は10分そこそこの短編映画か? 一日は何時間だ? 今日中に半分は終わらせると豪語した3時間前の自分を連れてこい、往復ビンタして言ってやる、「目を覚ませ」と…!

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そういえば、イタリアにこんな短いバルゼッレッタ(笑い話)がある。

病院に来た老婦人が、医者にこう言った。
「先生、私、毎朝7時に必ず用を足すんです」
「何が問題なんですか?」
「起きるのは8時なんです」
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さすがにもらしちゃうのは考え物だけど、時間なんて意識できないよって言うのが翻訳をしてる時の僕の正直な気持ち。結局のところ、僕たちは翻訳が好きなんだ。だから始めると夢中になっちゃうし、うまい表現が見つかった時の喜びは何物にも代えがたい。学生時代からずっと続けているこの作業は、けして目を覚ましたくない楽しい夢だ。

とはいえ、〆切からは逃れられないっていうのが、大人の悲しい事情なんだけど。

「『がんばれ、私』か」

そっとそうつぶやいた。夢の国に行く時間はないけれど、夢のような僕たちのゴールデンウィークは、また一日、過ぎていこうとしている。どうやら今日のノルマも、何時になったらこなせるのやら、だ。

執筆:有北雅彦(有北クルーラー)
1978年、和歌山県生まれ。作家・翻訳家・俳優。大阪外国語大学でイタリア語を学びながらコメディーユニット・かのうとおっさんを結成。’13年「国際コメディー演劇フェスティバル」コント部門A最優秀賞。訳書『13歳までにやっておくべき50の冒険』(太郎次郎社エディタス)と、これを基にした冒険イベントが全国展開中。

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