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ドキュメンタリー作家「森達也」(後編)

ドキュメンタリー作家、森達也。

東日本大震災を題材に撮った『311』共同監督の1人として、話を伺った。

今回は、「ドキュメンタリーとは何か」という核心に迫る、インタビュー後編。

前編はこちら
(『311』公式サイトはこちら

 

他の人から見た「森監督」

‐‐‐今作『311』の共同監督、松林要樹さんが書かれている文章で「森監督が撮影するマニュアルがある」っていう箇所があったんですが。

 そうだっけ。覚えていない。

‐‐‐被災地や事件の現場で動くときに、自分なりにどういうところからアプローチをはじめてどういう映像を撮っていくかっていうマニュアルがあるっていう話でした。

 いやいや、できてないですよ、まあ彼にはそう見えたんでしょうが。被災地といっても阪神淡路大震災の時は日本にいなかったし、今回はじめてみたいなものです。現場に行って呆然としてましたよ。

‐‐‐松林さんは「森監督は動きが早い」というイメージも書かれていました。

 ああ、それはよく言われます。早い、というか僕は「鈍い」んですよ。危機管理意識が薄いんで、普通だったら「これ大丈夫かな」って石橋叩いてから渡るところを、僕は叩かずに渡ったりするから、周りから見てると「あいつは動きが早い」と言われるんでしょうけど、早いわけじゃなくて鈍いからあんまり考えてないだけ(笑)。

別に今回に限らず、「あれ、みんなどこに行っちゃったんだろう」って振り返ったらみんなは遠くのほうにいる、っていうことがよくありましたね。

‐‐‐安岡さんは森監督について「撮影してくる映像がダイナミックなものが多かったから編集に困った」という趣旨のことを。

 まあ、よく言えばダイナミックですが、悪く言えば「手ぶれ」ですからね(笑)。運動会で子供追っかけているお父さんと一緒で、素人みたいなもんです。三脚立ててフィックスの映像を撮るということができないんです。

‐‐‐そのあたり、森監督の中で確固たる意識というか「柱」はあるんですか? そういう風に撮るべきだという。

 うーん。ほんとはじっくり撮影したいんですけど、どうしても現場に行くとああいう風に撮っちゃいます。むしろ反省していることかもしれない。三脚立ててじっくり、までするかどうかは置いとくとしても、もっと落ち着いた映像にしたいとはつねづね思っているんです。でも今回は10年ぶりということもあって、ついつい思いつくままに動いちゃいましたね。映画にしようとの意識もなかったし。

‐‐‐10年ぶりの撮影で、ブランクと言いますか、期間が空いていても体に染みついているものですか?

 自転車といっしょですから。

 

「うしろめたさ」、そして覚悟

‐‐‐今作のテーマとして、「うしろめたさ」というのを大きな一つのキーワードとして使われていました。ドキュメンタリー作家として被写体に接していくというところから、そういう「うしろめたさ」というのはずっと抱えていらっしゃったのでしょうか?

 僕のドキュメンタリーはもともとテレビのADから出発したわけで、AD時代からドキュメンタリーと報道が主な自分のフィールドでした。事件が起きた後に現地に行って遺族の方に話聞きながら、場合によってはいきなりマイクを無遠慮に突き付けることもあったので「うしろめたさ」っていう感覚はありましたし、今でもずっとですね。

‐‐‐『ドキュメンタリーは嘘をつく』を書かれた頃から、「ドキュメンタリーは善人には作れない」という話をされていたと思います。

 そうですね、善人だったら、うしろめたさに耐えきれなくなっちゃうだろうし。ドキュメンタリーもメディアも、すべてじゃないですけど、人の不幸を撮るってところがあるわけです。事件や事故が起こったらみんなでそこに行く。人の不幸を僕らは商売にしているわけです。だからうしろめたさも当然ありますよね。

‐‐‐今作『311』については、必要なのは「不幸を撮る覚悟だ」というような表現をされていたと思いますが。

 「人を傷つける覚悟」です。よくメディアの人が「傷つけないように配慮しました」とか言ってるじゃないですか。でもそれは無理ですよ。テレビなんて特にそうですよね、誰が見ているか分からない。ある人にとっては何でもないことでも、別の人にとってはすごく心を傷つけることもあるわけで、絶対に万人を傷付けない表現なんてありえないですよね。

誰も傷つけないことを選択するんだったら、それをやめるしかないし、続けるんだったら人を傷つけているんだという意識を持つべきだと思う。それが「覚悟」という表現になりましたね。

 

ドキュメンタリーを撮る、ということ

‐‐‐文章の方だとニュージャーナリズムのような、自分が参加して一緒に体験するという手法もあると思うんですけども、今回監督の方々4名は傍観者というポジションだと思います。外から入って、その「うしろめたさ」を抱えたまま、たとえば遺体を捜索するところも淡々と撮影するようなところっていうのは、スタンスとして意識されているんでしょうか?

 それはケースバイケースとしか言えないと思っています。ただ大体の事件事故の場合、僕はやっぱり非当事者です。だから「自分は決して当事者ではない」という意識は当たり前ですけど持っていますよね。

‐‐‐そんな一歩引いた姿勢が今回の場合、「賞賛と罵倒」のうちの罵倒の一つとして言われているのかとな感じました。

 そうですね。『311』は言ってみれば「セルフドキュメンタリー」なわけです。自分たちのドキュメント映像を撮っている背景の状況が被災地なわけですね。ということは、ガレキだったり被災者だったりが後景にしりぞいている。

それは言い方を変えれば「被災地を足場にして自分たちを撮っている」ということに。だから「不謹慎だ!」ということになるんでしょうけどね。

‐‐‐さらに飛躍して「それで金もうけしている、悪い奴だ」と。

 できるなら金もうけしたいよ(笑)。テレビは別として、今の日本のドキュメンタリーの現状で、金儲けができた事例など、まずないですよ。

 

‐‐‐『311』の最後で、撮影している皆さんに向かって怒りをぶつける方が映っているんですが。

 実は今回、彼に対してのアフターフォローについて意見が食い違ったんですね。

‐‐‐後で連絡とって、作品を見せたんですよね。

 結局そうしました。

でも僕は、それはすべきじゃなかったと思ってます。了解を取るのなら、映り込んでしまっている全ての人にやるべきです。ドキュメンタリーってどこで誰が映りこんでいるか分からないでしょ。どっかで人を傷つけている可能性は十分あるわけで。たまたま問題になるかもしれない人にだけ同意を求めるっていうのは僕は覚悟が足りないと思っていて。

でも全ての人に了解を求めるなんて、物理的に不可能です。ならば中途半端なことはすべきではないと考えています。ただ映像にも残ってますが、棒を投げられていろいろやり合ったとき、「後でお見せしますから」ってその場で言っちゃったんですね。言っちゃったからには約束守らないといけないので、見せに行きました。
今、言ってしまっているけれど、これだって外部に言うべきことじゃない。『靖国』って映画があったじゃないですか。あの時に「被写体になった刀匠の方の了解を得てない」とかで大騒ぎになって、そこで李纓監督が「ちゃんと見せて了解とってます」としゃべったんですよ。あれは僕は言うべきではなかったと。

それはもう作品外の状況ですよ。そういう事実があったとしても僕は黙っているべきだと思ってます。だから今回も本当は言いたくないんですよ。

‐‐‐それは、ネットなどの反応で「遺族に配慮しろ」というか「気を使うべきだ」と言われている話とリンクすることですよね。

 もちろん気は使うところは使っていいですけど、「全員には絶対気を使えない」ということを意識しないと。一人だけ気を使ってそれでオッケーだと思っているんだったら、むしろ自分たちのもっている「害悪性」というものを薄めちゃっていることになりますから。

‐‐‐「害悪性」はずっと抱えていくべきだと?

 持っていくべきでしょうね。実際に害悪性はあるし、誰を傷つけているか分からないわけですから。それに対して無感覚になっちゃうのは一番ダメなんじゃないかなと。
僕は、津波で流された子供を探す母親と会って話をしたあと、「不満を僕にぶつけてください」って言ったんです。最悪のコメントですよね、薄っぺらな偽善のね。本当は削りたかったけど、こういうのを残さなきゃこの作品だめだなって思いました。本来だったらカットしたい映像、カットしたいコメントとかたくさんありますからね。それは4人全員そうですよ。

‐‐‐福島に行く時にみんなで線量計の数字を見て、妙にハイテンションだった話とかもありましたね。

 4人がみんなはしゃいでしまうんですよね。深刻な事態なのに。人間って危険が迫ったときむしろハイになってしまう。怖いから紛らわそうとしているんでしょう、きっとね。今思うと大したことのない線量計の数字だったけど、あの時はほんと怖かったんですよ。今は逆に、慣れちゃった現状がありますよね。だからあの時大騒ぎした感覚っていうのは覚えておくべきですよね。

 

森監督、ありがとうございました。

ドキュメンタリー映画『311』は全国で順次公開中です。
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森監督の目線と、ドキュメンタリーを撮るということに対する姿勢を感じてください。

(2012年3月 取材・執筆:森田和幸)